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ディグリーザー

今日は明日からのロングライドに向けて、自転車のメンテを行った。

メンテといえば、チェーンの注油。でも注油する前にやなければならないのが脱油。

今回はこの脱油作業に、ケーヨーD2で売ってる安物ディグリーザーを使ってみた。

使用方法はいたって明快。ブシュッと噴射して、雑巾で乾拭きするだけ。

さて、実際どのくらいが威力なのだろうか。こたえは↓


左側が使用前。右側が使用後。

圧倒的な威力だ。

チェーン本来の銀色を取り戻すのに成功した。快感。

でも300円くらいの安物でこの威力なのだから、1000円クラスのディグリーザー(スーパージャンボとか)はマジでヤバそうだ。

ぜひ一度使ってみたい。


追伸>昨日ブログを更新できなかったのは、サイトが混み合ってて、更新に失敗したからです・・・・

宗教的

今日、キリスト教の布教と思われる訪問があった。別に信者になるつもりはないが、果たしてどのような考えをもって布教しているのかには興味があったので、少し話を聞いてみた。

布教者いわく、地球は人のために創られたという。創ったのは何かというと、「神」というのである。つまり、地球は神が人のために意図して創った産物だというのである。

別にこの考え方に科学的根拠が無いなどという批評を加えるつもりはない。ただ、こういった特定の宗教的な思想にしばしばみられる「人間中心」という考え方は少し気がかりである。

先述のとおり、キリスト教では人は神の意図した存在としている。また同じくイスラム教でも人は神の創造物としている。ここで分かるのは、この2つの宗教に共通する考えは人間と自然界との間に絶対的な差異があるとしていることである。すなわち、人を自然の一部と見ず、何か特別な生き物ないしは創造物と見なしているのである。

ところが、これに対して仏教では、人間を広い宇宙空間の意味する一つ側面(空間)と捉えている。

つまり、キリスト教やイスラム教が世界は人間(または神)中心に動いているとするならば、仏教は全体が同一の尺度で動いていると考えるのである。

また、この点でもう一つ興味深いのは、キリスト教とイスラム教は「神」(またはそれに類する絶対者)という存在を非常に大きく捉え、その大きな存在によって全体を包括していることである。

ところが、仏教はそもそも神がどうこうという概念自体がなく、自然に与えられた条件の中で、人の生き方・考え方について考えるというのである。

このように宗教ごとに考え方が異なっていった原因は、それは当時の情勢であったり、あるいは文化であったりするものであろうが、いずれにせよ宗教ごとに思想にこれだけの違いがあって、そしていずれの宗教も今に至っても数多くの信者がいるというのはすごいことだと思う。

本当に人間の思想は広いものだと改めて思った。


ながなが書いてみました・・・

ラン練

今日のラン練はしんどかった・・・

昨日の疲れがまだかなり残ってたのだ。

メニューは

15分UP

45分サーキット

DOWN


メニュー自体は大したことはなかったんだけど、やはり疲労がかなり体を縛ってツラかった。

サーキットの中では特にラウンジ50mとかがハードだった。筋肉痛は必定だろう・・・・


これからバイト7時間・・・・・・・・

休みが欲しい・・・・・・